未分類

[STORY004] あいらんど からつなぐ、島と人の縁

菅島で生まれ育ち、高校卒業後に大和銀行(現りそな銀行)に就職するため大阪へ。大阪で結婚・子育て・再就職を経て、定年退職を機に故郷・鳥羽へ戻ってきた河野千恵子さん(旧姓・澤田)。現在は鳥羽のカラオケ喫茶「あいらんど」のママとして、島出身者や地域の人々が集う場を守り続けている。菅島の歴史とともに歩んだ一家の物語、大阪での年月、そして「卒婚」という新しいライフスタイル、これからの夢を語っていただいた。

──ご出身の家のことから聞かせてください。

私の生まれた家は、菅島の民間の渡し舟(定期船)をしていた家のひとつです。曾祖父の「澤田惣四郎」が始めた事業でした。そのことは菅島のウィキペディアにも書かれているんですよ。

祖父が定期船の権利を市に譲渡してからは、郵便集配業務の請負と雑貨店をやっていました。鳥羽の郵便局に郵便を取りに行って、島に戻って配達するんです。今、菅島の郵便配達をしてくれているのが私の親戚です。代々受け継がれているのです。

──菅島の中学校はどんな様子でしたか。

木造の校舎でした。1学年1クラスで、私のクラスは少なかったから20人弱でした。多いクラスは30人以上いた年もありましたね。

──高校時代の思い出に残っていることはありますか。

高校生の時に、神島に山口百恵ちゃんの撮影を見に行ったんですよ!「潮騒」の撮影で、定期船に乗って見に行って。船着き場から走っていく場面とかを見てました。もう、綺麗でしたよ。

映画潮騒より、写真引用:「潮騒」②山口百恵より

あの頃はブラジル丸っていう大きな観光船も鳥羽に停泊していて、鳥羽まつりの時なんかブラジル丸のところから花火を見たりして、なんか賑やかな時代でした。

引用:ブラジル丸お別れ会より

──高校卒業後はどのような道に進まれたのでしょうか。

宇治山田商業を出て、大和銀行——今のりそな銀行ですね——に就職して大阪に行きました。でも2年ちょっとで、おじいちゃんの体調が悪くなったからって呼び戻されて。その頃に大阪でお付き合いしている人がいたので、やっぱりまた大阪に戻りました。そして、その人と大阪で結婚しました。
子供3人がある程度育ってから別の所に働きに行くようになりました。退職金が満額頂けるので、定年まで働こうって決めていました。そして、定年までしっかり働きました。

──「あいらんど」はもともと菅島にあったとお聞きしました。

そうなんです。「あいらんど」は菅島にルーツを持つお店なんです。

菅島に清島という民宿をしていた建物があって、その下の部分で叔母がカラオケスナック「あいらんど」をやっていたんです。坂を上がって左手側のところでやっていたんです。

その後、鳥羽の「あいらんど」を開店しました。

叔母はものすごい働き者で、旅館もやりながら、鳥羽の「あいらんど」も昼過ぎから夕方まで開けて、それから菅島にに戻って夜はこちらの「あいらんど」もやるという感じで。菅島の人たちが喜んで集まってくれていたみたいです。手伝ってくれるスタッフもいてくれたとはいえ、本当によく働いていたと思います。 最初は菅島と鳥羽の両方でやっていたんですが、そのうちに鳥羽のあいらんどだけになって。今の鳥羽のあいらんどは、もう30年近い歴史があるんじゃないでしょうか。

このビルの1Fに初代「あいらんど」はありました。

──退職後、鳥羽に戻ってこられた経緯を聞かせてください。

もともと菅島を出る時から、いずれ戻ってきて何か地域に貢献したいと思って出ていたので、「退職したら田舎に帰る」って大阪の家族にも菅島の家族にも言い続けていました。

最初は、妹が鳥羽に一軒家を買っていて、その家が空き家になる予定だったので、そこで民泊をやろうと思っていたんです。でも空き家の予定が白紙になって、どうしようとなっていた時に、ちょうどあいらんどの話が出てきたんです。

「おばさん(あいらんどのママ)が3日後に辞めるって言ってるけど、お姉ちゃんどうする?やってみない?」って妹に言われて。それで、叔母が辞めるというその最後の日に、会社を午前中で終わらせて、あいらんどで話をして決断したんです。退職1年前でしたが、とりあえず土日だけ通って、平日は妹と弟の奥さんにフォローしてもらう形でスタートしました。 退職後は市の「空き家バンク」で見つけた鳥羽の家に住んでいて、弟に送り迎えしてもらいながら毎日あいらんどに出ています。退職金で空き家を買って株式会社にして、いずれは民泊も旅館もやってみたいんですけど、今はなかなか休みも取れなくて、他のことは手付かずです……。

現在のあいらんどは、鳥羽駅から徒歩3分。鳥羽マルシェ・ドルフィン公園の横にあります。

あいらんどの場所

──いろんな離島の方と交流する中で、島ごとの違いは感じますか。

島によって全然キャラが違うんですよ。

答志とか和具の人ってものすごく積極的で、集まっても島の将来の話を真剣にしはる。「こうやっていきたい、ああやっていきたい」ってすごい前向きで。よく飲んで歌ってくれます。

桃取の人たちはまた違って、真面目な方が多いように感じます。同級生の集まりで来てくれた時も、ずっと静かにおしゃべりされていて、歌で盛り上がるというよりも、集まりを楽しむ感じがします。

菅島は大人しい人が多いかな。ただ、他のお客様から歌上手い人が多いってよく言われます。本当に上手な人が多いです。

坂手や神島の人も来てくれます。歌を楽しんで話も弾みます。離島の方々にもっともっときていただき、楽しんでもらえるように頑張りたいと思ってます。

──あいらんどを運営するうえでこだわっていることはありますか。

どんな人も受け入れたいんですよね。カラオケ喫茶だから歌いたい人がメインではあるんですけど、カラオケじゃなくてもコーヒーだけでも全然いいし。みんなが和める場所にしたい、というのが一番です。

離島の方には、定期船の待ち時間に来てもらえるのも嬉しいですね。車を置いてそのまま飲んで船に乗って帰れるから。

島から鳥羽に来る用事があって、「帰りにちょっと寄っていこう」みたいな感じで来てくれる人も多くてありがたく感じています

──踊りを長く続けてらっしゃると聞きました。

ちっちゃい頃から天王祭や盆踊りで踊ってきましたね。中学生の頃には日本舞踊みたいなものも踊ったことがあって。子供が手離れしてから山村流の先生に習いに行って、もう20年以上になります。

大阪では盆踊りの駒舞会にも10年以上入っていて、今も関西阿波踊協会のにしき連に在籍しています。 今年も徳島まで踊りに行きました!大阪でイベントがある時は行ったりもしていたんですけど、最近はなかなか行けてないです。

今も天王祭で踊りを披露してくださっています。

──鳥羽に移られてから、ご家族との関係はどうされているんですか。

実は私、「卒婚」なんです。離婚したわけではないんですよ。ほら、加山雄三さんとめぐみさんが卒婚されて、奥さんが外国に行ったじゃないですか。あのニュースを聞いた時に、「あ、これだ、私も卒婚だ」と思って(笑)。

鳥羽の家を買った時も、主人が来てもいいしという感じで。私には自分のやりたいことがあるから、それに全力を尽くしたい。

2人でずっと共同生活する時間は、もうちょっと卒業してもいいんじゃないかな、という感覚なんです。

──大阪には今もよく帰られるんですか。

月に1回帰るか帰れないかくらいですね。その時は主人と会って、ちゃんとコミュニケーションをとっています。

お互いにちょうどいい距離感で、家族は円満ですよ。毎日一緒にいるより、月1回のほうがお互い大事にできるってこともありますしね。

──これからあいらんどや地域についての夢を聞かせてください。

もっともっとお客さんがいっぱい来るようにして、民泊もいろいろ広げていきたいし、最終的には旅館業もやりたいなと思っています。

地方活性化に尽力したいと思っているので、島から人が離れていかないような島になっていったらいいなと。菅島をはじめ、鳥羽全体が、もっともっと活性化してほしい。そのためにできることを、私なりにやっていきたいと思っています。

自分が生まれた島。大事にしたい。ありがたい島です。

【プロフィール】河野千恵子(かわのちえこ)さん(旧姓・澤田)

菅島生まれ。宇治山田商業高校卒業後、大和銀行(現りそな銀行)に就職し大阪へ。結婚後は子育てを経て再就職し、定年まで勤め上げる。退職を機に故郷・鳥羽へ。現在は鳥羽のカラオケ喫茶「あいらんど」のママとして、地域の憩いの場を守り続ける傍ら、山村流日本舞踊、盆踊り、阿波踊りと踊り続ける踊り人でもある。「卒婚」スタイルで月1回大阪に戻り家族とも良好な関係を保ちながら、民泊・旅館業など地域活性化への夢を描き、日々奮闘中。

千恵子さんのインタビューを元に制作した曲「あいらんどの灯り」
是非お聞きください。

菅島には、たくさんの人生があります。

島で生まれ育った人。 今も島で暮らしている人。 島を離れて活躍している人。 仕事や家族を通じて菅島とつながっている人。

「あの人菅島」は、そんな一人ひとりの人生や想いをインタビューとして記録し、未来へ残していくプロジェクトです。

掲載させていただいた方には、インタビュー内容をもとに、その人だけのオリジナルソングを制作します。

あなた自身でも、 紹介したい方でも、 ぜひご応募ください。

応募フォームへ

-未分類