あの人菅島

[STORY003]毎日がスペシャルだった

菅島で生まれ育ち、今は愛知県長久手市でトヨタ系の部品メーカーに勤める木下康成(やすまさ)さん。島を離れて数十年が経つ今も、菅島の記憶は鮮明です。海女だったお母さん、神聖なしろんご浜、夜の堤防で眺めた星——。島で培われた「なければ作ればいい」という精神は、今も仕事の精神の中に息づいていました。

──ご出身はどちらで、ご家族はどんな構成でしたか。

打越(うちこせ)の生まれで、父と母と兄と姉の5人家族です。3人兄弟の末っ子でした。父は漁師で、夏はスズキ釣りをしていました。母は海女で、アワビや海藻を採っていました。同級生は9人でしたが、今は誰も島に残っていないですね。兄弟も全員島外に出ていて、兄は名古屋、姉は四日市で暮らしています。

──島を離れたのはいつ頃ですか。

高校を卒業してすぐ、安城市にあるアイシン(トヨタの部品メーカー)に就職しました。今は別のトヨタの部品メーカーのジェイテクトで働いています 。長久手に家を買う前は豊田に住んでいました。愛知に住んでからの方がもう長いですね。

──子供の頃の菅島の思い出を聞かせてください。

毎日が本当にスペシャルで全てがオンリーワンの日々だったと思います。毎日が濃密すぎて24時間だとは思えないくらい、日々が濃かった。ただ、思い出と言われると、やっぱり夏ですね、濃密な思い出は(笑)。

今は夏が大嫌いですけど(笑)、子供の頃は夏が大好きでした。

あの頃も暑かったですけど今ほどじゃなかったし、毎日ワクワクしてましたね。海水浴は基本なこら浜でした。当時のなこら浜は堤防もなかったから、今のイメージより浜がずっと大きかったんです。

──お母さんの海女漁についていったこともありましたか。

アワビ漁の日は学校が休みになるので、僕も母が漁に出る日にはついて行っていました。僕は、トコブシを採ってました。それを取ると島の仲買さんが1個100円ぐらいで買ってくれるんです。10個、20個取ると、すごいお小遣いになるんで、もう必死でしたよ。朝から準備して船に乗って、すごく楽しみでした。

──冬の菅島は風が強いから……

冬は風が強くてイベントもほとんどないし、島の冬の思い出ってあんまりないんですよ。

大人になって知識がついてきた時に、なんでこっち側に集落を作ったんだろうと思ったりしました。もうちょっと太平洋側に作ればあそこまで風が強いこともなかったんじゃなかったんじゃないかなと考えたりしてました。それくらい菅島の冬の風は厳しいですね。今もそうでしょうけど(笑)

厳しい冬の風の中行われる弓祭。写真は康成さんが中学生の時に演目で参列した時のもの。

──しろんご祭りはどんなお祭りでしたか。

もう島一大のイベントですよ。朝から町内放送で民謡がかかってました。僕は、父の船に大漁旗を掲げてパレードに参加したこともあります。母は海女で参加していたので、家族全員で関わっていました。大事で大切な思い出としてずっと心に残っています。

今も、しろんご祭りの日は朝から民謡が町内放送で流れます。

──しろんご浜についての思い出はありますか。 

しろんご浜はやっぱり島の人にとって神聖な場所で、一年に1回(しろんご祭りの日)しか立ち入れないんです。子供の頃は泳ぎに行きたくても行っちゃダメって言われてました。だから、本当に手つかずの浜だったんですよ。

──当時、しろんご浜へはどんな道で行きましたか。

行く道は幾つかありましたが、最もメジャーな道は民宿松村の辺り(東谷)の坂を上がって、山道をたどって歩いていくルートです。当然車では行けず、みんな徒歩で移動していたので、とにかく大変でしたね(笑)。

──当時、しろんご祭に取材は来ていましたか。

来てましたよ!アマチュアのカメラを持った人たちも来てましたね。うちの母がモデルになって写真を撮られこともありました。

実はその写真が、名古屋駅の新幹線の乗り口に飾られることになったんですよ。一年間くらい飾られていました。

名古屋駅に飾られたお母さまの写真

──撮影の時のエピソードはありますか。

母は見ての通り、ザ・海女っていう感じで。母が「なんで写真撮るんですか」って聞いたら、「かぼちゃみたいなお母さんがいいんだわ」ってカメラマンに言われて憤慨してましたよ。なんでかぼちゃなんだって(笑)。

あの日のことはすごく覚えてます。6年生になったばかりの頃でした。ソフトボールの練習で早朝から学校のグラウンドにいたんですが、すごい霧と小雨の日で、大山が白く霞んで視界が悪い日でした。

僕は練習中に忘れ物をしたことを思い出し、家が近いこともあって、一旦家に帰ったんです。そして家に戻った時に、すごい音がして、家も激しく揺れました。すごく大きな地震のようで、とにかく驚きました。急いで小学校のグラウンドに戻ると、一緒に練習をしていた仲間たちが大騒ぎしていて、「山が真っ赤に光った、何かが落ちた」って言ってたんですよ。僕は見ていなかったけど、見ていた子たちがいて、後から船でやってきた先生たちにもしきりにそのことを話していました。ただ今のようにネットがあるわけでもないので、すぐにちゃんとした情報が出てくることはなく、昼過ぎぐらいから飛行機が落ちたっていう話になっていきました。父も捜索隊として借り出されて、山に入って捜索してました。

──島で特に好きだった場所はありますか。

なこら浜の方の、船着き場から歩いてきて埋め立て地を歩いたところにある堤防が好きでした。夏の夜になるとそこに一人で行って、堤防に寝転がってました。本当に星がきれいに見えたんです。昔の夏の夜は涼しくて、でもコンクリートの地熱で下は暖かくて、寝転がるのにはちょうど良かった。そこで、学校のこととか部活のこととか、クラスで好きな女の子のこととか考えてると、だんだん眠くなってきて、「あ、眠たい、帰ろう」と思って帰る、っていう(笑)。何しに来たんだっていう感じでしたけど、よくゴロゴロしてましたね。

大好きな堤防で写真を撮った子供の頃

──島での経験が今の仕事や生活に影響していると感じますか。

今の自分があるのは島で育ったおかげだなと本当に思ってます。テレビゲームが流行り始めた時代でしたけど、外で遊ぶのが当たり前で、ただ遊び道具はそんなにないんですよ。ボールとかバットとか、そんなもんしかないから、それ以外のものは自分で作り出すしかなかった。物を作る、作り出すっていうのはあの頃から培われたものだなって


今、車の部品メーカーで働いていて、若い後輩たちに「それ、自分で作ったらいいじゃん」ってよく言うんです。後輩たちはすぐ外注しようとするんですよね。でも自分は、なければ作ればいいって感覚が自然にあって。それって島にいた時の経験からきてるんだろうなと思います。


父なんかも山に行って竹を切ってきて、木をあぶって曲げて竹竿とか作ってたりしてました。兄もその影響を受けていて、今でもどっかの山で竹を切って竿を作ってるようで、作った後は報告の LINEが来ます(笑)。


漁師の人たちも日陰でしゃがんで、破れた網を一本の糸で全部修復してまた使う、っていうのをずっとやってた。不便は不便なりに、自分たちで考えて作るっていうのが島の文化で、それが自分にも受け継がれているんだと思いますね。

──今の日常でもそういう精神は続いていますか。

自宅の庭に木がいっぱい植わってたんですが、今年の春に老後に向けて全部一人で抜根したんです。嫁さんにも手伝ってもらいましたけど。これから涼しくなったら、そこを畑にしようと思って。お金をかければ何でも手に入りますけど、そうじゃなくて自分で考えて作るっていうのが、島育ちのおかげなんだろうなと思いながらやってますね。

──今はどれくらいの頻度で島に帰られていますか。

父と母がもうおらず、兄弟も島外に出ているし、同級生で島に残ってる人もいないし、親戚のおじさんやおばさんに会いに行くということも減っています。
だから正直、帰る理由がなくなってしまっているんですが、数年に1度は墓参りをしに、菅島に来ています。

──帰島した時の楽しみはありますか。

島の味が恋しくなることがあって、特に海苔の季節になると、菅島の海苔が食べたくなります。3月のお彼岸の時に墓参りで島に帰った時には、必ず新海苔を買って帰りますね。

 あとわかめの茎の柴漬けっていうのが直売所でよく売ってたんですよ。あれをよく買って帰ってました。

 それから僕も、重太郎屋のちゃんぽんはやっぱり食べたくなります。

菅島の海苔は、日本で唯一の氷結製法(氷結熟成海苔)。味が濃いのが特徴です。

──久しぶりに帰った時、島の変化を感じますか。

景色は変わらないですよね。人工島ができたくらいで、堤防も風景もほとんど同じ。何年行っても変わらないなと思います。あのままでいてほしいなと思う気持ちが強いですね。ただ、帰るたびに小学校の外壁が古くなってきてるのが気になって。子供の数のことを考えたらお金をかけるのも難しいんでしょうけど、なんとかしてほしいなと思いながら見てます。

──島を離れて改めて感じる菅島の魅力は何ですか。

自然豊かな景色がそのままあって、みんながまだそこで生活しているっていうのが、やっぱりすごいことだなと思います。その景色がこれからも変わらないでいてほしいな、と。島の人って、最初は仲良くなるまでちょっと時間がかかるかもしれないですけど、いざ仲良くなると本当に世話好きの人ばかり。不便だけどスローライフができる場所として、魅力を感じて移住してくれる人が増えてくれたらいいなと思います。

──島の未来について心配していることはありますか。

人口がどんどん少なくなっていくのが寂しくて、そこが正直一番心配です。あと自然災害が増えてきていて、大きな地震や津波が来たらと思うと、島の今後がちょっと心配だなとはいつも思っています。

──今の島に住んでいる方々へメッセージをいただけますか。

ちょっと不便なところもあるだろうし、医者も少ない。高齢の方も増えてきているから、健康に気をつけて、島を守っていってほしいなと思っています。

自分のベースになった、大事な場所。

毎日がスペシャルで、オンリーワンで、同じ日が一度もなかった。今の自分があるのは菅島で育ったおかげだと思っています。もうかけがえがないですよね。1日24時間じゃないんじゃないかっていうくらい、すごく濃い時間でした。

【プロフィール】木下泰成(きのした やすまさ)

菅島(打越地区)生まれ。

父は漁師(スズキ釣り)、母は海女。

3人兄弟の末っ子。

高校卒業後、アイシン(安城)に就職。その後、ジェイテクトへ転職し、現在は愛知県長久手市に在住。

トヨタ系自動車部品の製造・ものづくりに従事している。

泰成さんのインタビューを元に制作した曲「Every day was Only One」
是非お聞きください。

菅島には、たくさんの人生があります。

島で生まれ育った人。 今も島で暮らしている人。 島を離れて活躍している人。 仕事や家族を通じて菅島とつながっている人。

「あの人菅島」は、そんな一人ひとりの人生や想いをインタビューとして記録し、未来へ残していくプロジェクトです。

掲載させていただいた方には、インタビュー内容をもとに、その人だけのオリジナルソングを制作します。

あなた自身でも、 紹介したい方でも、 ぜひご応募ください。

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