菅島で生まれ育ち、今は名古屋・丸の内でお花屋「花水月」を営む浅野美和子さん(旧姓西村)。
島を離れて何十年が経つ今も、菅島の記憶は鮮やかで、島への思いは深い。
懐かしい島の風景、変わりゆく島の姿、そして今の島民へのメッセージを語っていただきました。
記事の最後に美和子さんをイメージして制作した曲を載せてますので、是非最後までお読みください。
花屋への道 ―― 夢を一つひとつ、手繰り寄せて
──お花屋さんを始めるまでの経緯を教えてください。
高校を卒業してすぐ、名古屋の松坂屋に就職したんですよ。
でも、ずっと心のどこかに「いつかお花屋さんをやってみたい」っていう気持ちがあって。
25歳の時に思い切って転職したんです。
──転職して、花の世界に入ってみていかがでしたか?
もう、すごいハマっちゃって(笑)。
最初は軽い気持ちで「一生のうちに1回はやっておきたい仕事」のひとつ、くらいに思ってたんですけど、やりだしたら面白くて面白くて。気づいたら「これを極めたい」って本気になってたんです。
──そこから独立まではどんな道のりでしたか?
20代の後半には「いつか自分の店を」って思いはじめて、そのために専門的な知識をちゃんと身につけようと、プリザーブドフラワー専門店やブライダルのお花を扱うお店など、いくつかのところで修行させてもらいました。
で、34歳の時に独立して、最初の5年は栄1丁目でお店をやっていて、そこから丸の内にやってきたんです。菅島を出て、ぐるっと回りながら、やっと自分の場所に辿り着いた感じですね。
子供の頃の菅島 ―― 港と、灯台と、あの季節の記憶
──菅島での子供の頃の思い出を聞かせてください。
もうね、むちゃくちゃあって、絞れないぐらいいっぱいあるんですよ(笑)。
一番忘れられないのは、学校の先生が赴任される時などの船の見送りのこと。
港でみんなで紙テープを持つんですよ。先生に紙テープを渡して、船がゆっくり離岸して動き出して、ある程度離れたところでテープを切って、それを持って堤防まで走って投げるんです!船を追いかけてダーッと走って、テープを思いっきり投げて。
あれが本当に忘れられない。
今は人工島ができてから子供たちが橋を渡って人工島の堤防を走って見送るって聞きましたけど、当時は重太郎屋の前にある港のあのあたりがまさに舞台でした。
──夏の遊びといえば?
海水浴ですね!それと「クロンボ大会※」っていうのがあって(笑)。とにかく夏に黒く焼けたもん勝ちみたいな。たしか学校で表彰もあったんじゃないかな。はっきり覚えてないので、覚えている人がいたら教えてほしいです(笑)。
泳ぐのは、なこら浜が多かったけど、消防署の前あたり――あそこって埋め立て前は船が並んでたんですよ。その船と船の間で段ボールとかを使って基地を作ったり、ままごとしたり、海の近くが毎日の遊び場でした。
※インタビュー中に登場する「クロンボ」という言葉は、当時使われていた表現です。現在では差別的な表現とされているため使用は推奨されませんが、当時の暮らしや時代背景を伝えるため、発言内容をそのまま掲載しています。
──冬の思い出はありますか?
冬はね……菅島の冬って寒いし風も強くて、正直あまり好きじゃなかったんですけど(笑)。
でも水仙の季節になると、菅島灯台の方まで歩いて行って、ちょっと切って帰ってくるっていうのをよくやってましたね。
当時はそんなに花が好きっていう意識はなかったけど、今思えばあれが原点だったのかなって。お正月には父に連れられて日の出を見に灯台まで行ったのも覚えてます。
寒かったけど、あれは特別な時間でしたね。
──学校が休みになった鮑の口開け
小学校の頃は、アワビの口開けの日は学校が休みになって、漁に一緒に行き、海女をしていました!
アワビ漁の「口開け」の日は、学校が「どうぞ行っておいで」みたいな感じだったんです。だから、親について一緒に潜りに行ってたんです。今の子に話すとびっくりされるんですけど、あれが当たり前だったから。今は息子に「お母さんは昔アワビ潜って取ってたんよ」って武勇伝として話してます(笑)。
お盆の手踊りと青年団 ―― 島の夏、本気の仮装
──お盆の思い出もありますか?
これ、ちょうどお盆が近いから思い出したんですけど(笑)。
昔の菅島って中学を卒業すると青年団に入るんですよ。
で、お盆に手踊りの出し物があって、学年ごとに仮装して踊るんです。宿みたいな集まり場所を借りて、みんなでその小屋に集まって、出し物を考えたり、衣装を作ったりして。上の学年の先輩が師匠として仕切ってくれて、順位を競うんですよ。
本気でやってましたよ、あれは(笑)。
変わりゆく島 ―― 重太郎屋のちゃんぽんと、消えた民宿たち
──帰島するたびに感じる変化はありますか?
やっぱり人が少なくなったな、と感じます。
昔は民宿がたくさんあって、土日になると船着き場に各旅館の送迎バスが並んでいて、「こっちこっち」ってお客さんを乗せてたんですよ。だからバスが集まると、もうすぐ船が来るんだなぁって思っていたくらいです。
昔は賑わいが結構あったのですが、空き家になったところ、解体されたところ、帰るたびに変わっていって、なんかちょっと寂しいですね。
──帰ってきたら絶対これ、というものはありますか?
重太郎屋のちゃんぽん!
これはもう、姉とも「そうだよね」って話してたところで(笑)。島のソウルフードですよ。昔はね、今の場所じゃなくて中村谷にあったんですよ、重太郎屋さん。
そこにちゃんぽん食べに行くのが楽しみで。今は場所が変わったけど、あの味は変わらず残っててほしいな、って帰るたびに思います。
島で育ったから ―― 考える力と、人のぬくもり
──菅島での経験が今の仕事に活きていると感じることはありますか?
お花の仕事って、お客さんのいろんなご要望に応えなきゃいけないし、生ものだからケースバイケースが多くて。「できません」とは言わず、どうしたらできるかを考える力が自然とついてたのかな、と思います。
島では遊び道具も自分で作ったり、遊びも自分で考えてたじゃないですか。そういうところから来てる気がしますね。
──離れて改めて感じる菅島の魅力は?
人のつながりかな。知らない人があまりいなくて、すれ違えば「おはよう」って声をかけてくれる。それが苦手な人もいるかもしれないけど、私はそれが好きで。
名古屋に来てからも、円頓寺商店街の近くという下町に住んでいるんですけど、それも菅島で育ったからこそ、ああいう人の付き合いが深い場所が好きなんだと思います。
菅島のみなさんへ
──今、島に住んでいる方々へメッセージをいただけますか。
ちょっと偉そうに聞こえるかもしれないけど、一言で言うと「島を守ってくれてありがとう」です。
島って不便じゃないですか、一時間に一本も船があるかどうか。それでも島に残るっていう選択をしてくれた人がいるから、私たちには帰れる場所がある。母もいるし、島が途絶えることなく続いているだけで、本当に感謝しています。
菅島には、しろんご祭という菅島を代表するお祭りもあるし、菅島灯台という誇れる景観もある。最近では島っこガイドさんたちが本当に頑張ってくれていて、嬉しいです。ぜひそういったものをどんどん発信してもらって、昔のように活気のある島になってくれたら、島出身の者として、これほど嬉しいことはないなと思っています。
美和子さんにとって、菅島とは?
生まれ育った、大事な場所。
【プロフィール】浅野美和子さん(旧姓西村)
菅島生まれ。
高校卒業後、松坂屋(名古屋)に就職。
25歳でお花屋さんに転職し、以来その道を一筋に歩む。
34歳で独立し、最初の5年は栄1丁目にて「花水月」を開業。その後、名古屋・丸の内に移転し、現在も同店を営む。
花水月HP
https://hanamizuki.nagoya/
オリジナルソング「花水月の約束」
美和子さんのインタビューを元に制作した曲「花水月の約束」
是非お聞きください。
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菅島には、たくさんの人生があります。
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